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日本ニューロン株式会社岩本泰一

収益率の高い工場はキレイ

日本ニューロン株式会社 岩本泰一
この映像・情報は 2009年6月 当時のものです

内容

かの杉田玄白がドイツ人医師のヨハン・アダム・クルスの書いた解体新書を翻訳する際に、神気と経脈とを合わせて作った造語が「神経」らしい。神気というのは万物の素になるような気、というちょっと曖昧な、というかその存在が目に見えないようなもののことのようですが。リーダーの直感とかいうものは、それだけに新しいものを作るために大事な要素なんだ。

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男性 1960年代生まれ 関西地方の会社 継承 モノづくり

日本ニューロン株式会社

エネルギープラントなどで使用される伸縮管の設計、製造、研究分野を果敢に走り続ける 日本伸縮管株式会社。この会社の意外なこだわりとはいったい・・・?

氏名 岩本 泰一
会社名 日本ニューロン株式会社
出身地 大阪府
出生年 1960年
こだわり 朝風呂に入ってから出社する
趣味 スポーツ観戦・映画鑑賞・カラオケ
休日の過ごし方 家族とDVD観ています
座右の銘 こころよく、ここちよく。
心に残る本 「ガルシアへの書簡」
尊敬できる人 下泉澄夫 深町譲治 松下幸之助
現在の仕事の魅力と苦労 最新の解析技術や強度計算を駆使したエンジニアリングと、塑性加工をベースにした、製缶・成型・溶接というクラフトマンシップの職人技能とのベストミックスの賜物が、当社製品です。一品一様の難しさはありますが、過酷な使用条件下での長寿命確保など、刻々と進化するプラントシステムの喫緊の課題を、個別設計製作で克服したときの達成感は格別です。
日本を背負う若者へのメッセージ 現在の日本は、高度成長期以前の「おつり」で生きています。私たちを取り巻くこの豊かな衣食住は、先人の方々が、渾身で汗と智恵を出し、勝ち得たものばかりです。今後、このあたりまえに思える恵まれた環境が持続できない時代が、今すぐそこに来ています。若者諸君、世界の中での日本の強みと弱みを把握し「日本力」を高めるため、自分が何を生み出せるのか、そして将来のこの国に何を残せるのかを考え、わたくしたちと共に、一緒に邁進して参りましょう!
幼少~学生時代 幼少期:東大阪の鉄工所街に、3人兄弟の長男として生まれる。生家はたくさんのネズミと同居の貧乏長屋。両親は共働きで鍵っ子。ビー玉、ベッタン、コマ回しに明け暮れるどこにでもいるやんちゃ坊主でした。しかし反面、小学生6回の運動会のうち、3回を小児ゼンソクでやむ無く欠場。生傷と病気のオンパレードで、中学生までに内科、外科など産婦人科以外のほとんどの医者の世話になる。 青春期:高校受験に失敗、切望した憧れの共学高には行けず、刈上げ頭で白のズック靴、パンパンのマジソンバッグを提げ、鉄壁マジメな男子校3年間を過ごす。当時の写真はほとんど残っていない。(いや、残していない!) 電車通学の際、ヤンキー女子高生から『ブタかばん、邪魔!』と蹴られたことがあった。 大学時代:打って変わってリベンジ、「遊び人のシンさん」となる。学園祭でゼミのイベントとして、当大学では初の「ホストクラブ」を主催。「艶色 the host club」、次年の「艶色club ボヘミアン」を大成功に導く。ポラロイド写真での指名制、女性客とカップル以外お断り、カラオケショータイム(私がトリで、ニューハーフ?も居ましたよ)、完全入れ替え制という25年以上も前ではユニークなシステムで、連日長蛇の列。かわいい女性客には再度会える「しくみ」なども考案した。大学4年のとき、サンフランシスコへ留学、異国の輩との寮生活。そのときの経験がその後の卒論テーマ「日本的経営とアメリカ的経営」へと繋がる。
社会人時代 大学卒業後、東京で機械商社に勤め、当時ハシリであったCAD/CAM部門のセールスエンジニアとなり、NC機械やプログラミングの教育を受けながら、パソコンCADを車に積み、東日本を中心にキャラバンPRを行い、数々の製造現場を回る。そのときの大小工場訪問の経験が、現在の製造業としての会社づくりの根幹となった。また、生まれも育ちも東大阪の本人にとって、大阪は東京と張り合える存在で、まさに日本の双璧という認識とプライドがあったが、東京でのサラリーマン生活は、「大阪は一地方都市に過ぎない」ということをまざまざと見せ付けられたことに加え、「東京はお金がないとさびしい」と実感する貴重な貧乏ひとり住まいも経験した。。
社長就任のきっかけ 当時、「二代目」というと無知無能の代名詞のような言われ方をしていたので、少なからず、「がんばらねば!」という思いは常にあった。1989年に鉄鋼商社に勤めていた実弟と共に当時5名の鉄工所へ同時入社するが、父(当時社長)+弟【ふたりの現実主義者】  VS  自分【ひとりの理想主義者】 の構図でしばしば意見対立。『ボロは着てても心は錦』と、現場整備や建物外観二の次であった職人二人に対し、わたしは「これからはお客様に中身(製品)をしっかりと見ていただくためには、『ボロ』を着ててはダメ。いいモノづくりをやっているからこそ、まずは見た目から。」と当時としては空論めいたを持論を展開。1995年に社長である父が心筋梗塞で倒れたことをきっかけに、経営全般を任される。弟曰く、「神様は兄貴を選んだ」。翌年、「きれいな鉄工所」をめざし、弟の全面協力のもと、1回目の工場移転。2000年に社長に就任。計3回の工場移転を経て、現在の関西学術研究都市操業へと繋がる。
就任当初 大きなターニングポイントとしては、2つ。ひとつは下請けからの脱却。社に戻った当時20年前の売り上げは1社で70%、顧客数10社あまり。現在の顧客数400社超。もうひとつは3回の移転での四苦八苦。1996年の1回目工場移転の際、大問題が発生。工場の根幹設備である「べローズ成型機」が、移設不可能とわかる。その成型機械はニッチ業界の専用機なのでそれぞれのメーカーの自社製であり、もう機械をつくった技術者はおらず、誰かが新規設計、製作することが急務となった。しかしながら、機械製作失敗は、即、工場の心肺停止を意味する。結局機械商社時代の知識が奏功し、現代表が七転八倒の末、図面を書き上げ、社員みんなで組み立てた。結果的にはそのニューマシンは従来機の約2倍の成型速度を達成、当時の業績向上の立役者となった。2004年2度目の工場移転。前回の倍の敷地に移転するが、すぐに手狭になるといううれしい誤算。この移転直後には自己手形の廃止も実現。翌年には再度新たな転地計画をはじめ、その後京都府の誘致を受け、2007年7月、現在のけいはんな学研都市に完全移転。この研究開発都市への移転が、現在、様々なシーズを生み出し始めている。
今後の目標 会社として:2006年からの継続プロジェクトである、大学【工学部材料工学科】との技術提携を続け、金属寿命を決定付ける、『疲労』と『腐食』の2大テーマのさらなる研究に取り組み、伸縮管の設計・製作・解析業務を基軸として、広義のPIPELINE SOLUTIONを目指す。また、環境共生型企業として、現在の太陽光発電、「知能化制御潅水システム」を導入した屋上緑化、ビオトープ、雨水再利用システムに加え、さらなる『カーボンオフセット』を目指す。 個人として:人生12年をひとつの周期と考えたとき、現在の48歳から、あと一周(12年)で還暦を迎える。60歳までを本業に邁進する最終ステージの12年と捉え、その後は社業を外から応援し、家族との時間を最優先にしたい。合わせて「庵」を構えたい。これを以って、社の内外の人々との精神的なふれあいの場とし、自身の人間力の向上と、様々な客人との癒しや憩いのもてなしを創出できれば、と考えている。
企業名 日本ニューロン株式会社
所在地 京都府相楽郡精華町光台3-2-18
業種 サービス - コンサルタント
設立 1973年
資本金 3,000万円
従業員 32名
事業内容 伸縮管継手の設計、製作、研究開発
URL http://www.neuron.ne.jp/