KENJA GLOBAL(賢者グローバル)

パーソルホールディングス株式会社
篠原 欣子

人材派遣のパイオニアの軌跡

海外で見たビジネスモデルが賢者を変えた。原点は楽しく働く事。楽しさの形は様々だから、働き方だって様々でいい。誰もやってない事ならば、自分がやればいい。そして、それを続けて行く事が大切なんだ。

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PROFILE

賢者プロフィール

氏名 篠原 欣子
会社名 パーソルホールディングス株式会社
出身地 神奈川県
出生年 1934年
年 表
1934年 0歳 神奈川県横浜市に生まれる
1953年 18歳 高校卒業後、三菱重工業株式会社 入社
1957年 22歳 同社を退社
1966年 31歳 ヨーロッパへ留学
1969年 34歳 帰国後、外資系企業の秘書として勤務
1971年 36歳 オーストラリアに渡り マーケティング会社の社長秘書として勤務
1973年 38歳 帰国後、テンプスタッフ株式会社 設立
1978年 44歳 オフィスを六本木から乃木坂に移転
1986年 51歳 労働者派遣法が施行
1987年 53歳 男性社員の採用を始める
1989年 55歳 売上高 100億円(3月期)
1992年 57歳 分社化を始める (現在のグループ会社は46社)
2000年 65歳 社内ベンチャー制度をスタート
2006年 71歳 東証一部に上場 連結売上高 2129億円(3月期)
趣味 ウォーキング
座右の銘 置かれた環境で一生懸命、必ず光は見えてくる
尊敬する人物 母、松下 幸之助、マザー・テレサ

HISTORY

賢者ヒストリー

  • どんな家庭環境でしたか?

    女3人、男2人の5人兄弟の私は次女として生まれました。父は国民学校の校長をしていたのですが、1943年に病気のため他界しました。その後、母は5人の子供を女手一つで育てました。

  • 尊敬する人はお母様だとか?

    母は戦前の日本では珍しい、助産婦師の資格をもって働いていた人でした。美人で謙虚で威張らない、素晴らしい人。プロ意識を持って働く母の影響を強く受けました。

  • お母さんから学んだ事は?

    「率先垂範」を学びました。

  • どんな少女時代を?

    勉強は好きでした。特に英語が好きで、高校では語学部に所属していました。

  • 就職したのは珍しかったのでは?

    学校推薦で、三菱重工業に入社しました。同じクラス学校で就職したのはわずか数名でした。配属されたのは資材部庶務課。50人ほどの部署で仕事は計算や書類作りをしたりする、一般事務でした。 その後結婚の話があり退社しました。その人とは結婚しなかったのですが、後にほかの人と結婚をしまして、そして離婚を経験しました。 当時も仕事はしていましたが、母のようなプロの職業人ではありませんでした。私は焦りを感じていました。そこで、思い切って英会話教室に通い始めました。

  • ヨーロッパへ行くと決意したきっかけは?

    兄弟は口を出しませんでしたし、母も許してくれました。見送りに来てくれた空港のロビーで化粧を直す母の指先が震えていた事を覚えています。

  • 最初はスイスへ?

    誰も知り合いがいない外国に行くのは不安がありました。チューリッヒに知人がいたので、ドイツ語圏でしたがスイスに行きました。

  • イギリスでの生活は?

    ホームステイをしながら英語学校や仕事に役に立つ秘書学を勉強するため「ウエスト・ロンドン・カレッジ」にも通いました。カレッジで2年間学び、その後英文タイプの学校にも通いました。

  • 困った事は?

    滞在費が心細くなった事ですね。ストッキングが伝線すれば糸でかがり、暖房機は設定温度を下げて節約、お金がない時の工夫をこの時期に身に付けました。

  • 留学で学んだ事は?

    物事を広く、多面的に見る事ができるようになりました。人の考えを受け入れる大切さを学びました。自分がやらなくては何も動かないという事。あと、孤独に打ち勝つ強さ。

  • 帰国後したのはなぜ?

    もっと勉強をしたかったが、滞在費が底をつきました。帰国後は、留学経験をかわれて、ドイツ系外資企業の社長秘書として勤務しました。仕事には不満はなかったのですが、もっと英語をブラッシュアップさせたい、海外で働いてみたいという意欲に駆られました。

  • なぜオーストラリアに?

    帰国後、購読していたジャパンタイムにシドニーにある市場調査会社が日本人秘書を募集の広告を見つけました。チャンスと思い、すぐに手続きをしてオーストラリアに行きました。

  • シドニーでの仕事は?

    50人ぐらいの社員がいました。日本企業との違いは女性マネージャーや女性部長がいきいきと働いていた事です。男女が平等にのびのびと働ける職場は初めての経験でした。

  • シドニーでテンプスタッフをつくるきっかけがあったそうですね?

    ある社員が休みをとったんです。すると知らない人が与えられた仕事をてきぱきとやっているんです。同僚に聞くと「テンポラリー・スタッフ(臨時スタッフ)」だと教えてくれました。効率的なシステムに強い印象を受けました。 シドニーの生活は充実していたのですが、そろそろ帰国を考えるようになった時に、人材派遣会社を経営している女性社長を知人から紹介してもらい、会社を見学しました。経営のアウトラインを聞き、帰国しました。

  • テンプスタッフ設立の経緯は?

    帰国してプロの通訳や翻訳家になる道もあったのですが、それは選択しませんでした。 新聞の求人広告を見て応募、数社から採用の連絡は入りましたが、当時、日本は女性が活き活きと働ける環境ではありませんでした。 それなら、オーストラリアで目にした人材派遣会社をやってみようと思いました。発起人が7人必要でしたので、親戚、母親や兄弟に名義を借りました。社名は「テンポラリー・スタッフ」を縮めて、「テンプスタッフ」にしました。人材派遣を利用するのは本国に人材派遣システムがある欧米の企業と思ったので、会社の場所は六本木にしました。 当時「人材派遣」という言葉はまだ使えない時代でした。業務内容は「事務処理請負業」と称しました。必要な時に必要な人材を送れればいい。日本にない効率的なシステムを広めたい!という思いでした。社長になるという気負いはありませんでした。

  • 設立してどうでした?

    最初は自分ひとり、電話番は姪にアルバイトをしてもらい、営業をしました。多い日は一日で20社は回りました。人事担当者に説明はしますが、なかなか理解してもらえない時期もありました。 副業に「英会話教室」を始めました。最初の3ヶ月間は仕事がなかったが、あるとき電話がなりました。派遣スタッフ希望者からです。登録に来るはずの派遣スタッフから「場所が分からないから帰る」と言われました。あわてて部屋を飛び出して迎えに行きました。派遣スタッフの人脈もでき、徐々に軌道に乗り始めました。

  • 仕事が回ってくると困った事があったそうですね?

    資金繰りです。派遣スタッフに支払う給料の先払いが増えてきて、資本がないので運転資金に窮しました。(派遣は全て先払いです。事業が動けば動くほど運転資金が不足する。) もうやめたい。なんで会社を創ったのだろうと後悔もしました。母に無理矢理お願いして保証人になってもらった事もありました。兄は事業をする事は反対でした。

  • 創業して3年目に試練が・・・?

    官庁などから「人を企業に派遣して、お金をもらっているのは違法でないか」と指摘を受けた。職業安定法によって、民間の人材派遣会社は違法とされていて、何度も呼び出しがあり、その度に落ち込みました。 なぜやめなかったのかというと「自分に負けたくない。派遣スタッフや企業から『またお願いします』と言われると、期待に応えなきゃ」と背中を押されて続いていました。 企業理念の基となる考え「お客さまを大切に、スタッフを大切に。お客さまに信頼され、スタッフから頼られるテンプスタッフでいなければならない」 1996年5月より現在の企業理念「雇用の創造」「人々の成長」「社会貢献」となりました。

  • 乃木坂にオフィスを移したのは?

    この当時は電話がなりっぱなしでビジネスとして大盛況になっていました。社員も増え、オフィスが手狭になったため、乃木坂に移転しまし た。社員へは絶対にお客様からのオーダーを断ってはいけないと言っていました。「今あることを一生懸命やるのよ。そしたら、ぱちんとチャンスが来るのよ。」 派遣スタッフに報酬を払う時期になるとコンピューターがないのですべて手作業で本当に大変でした。あの頃を思うと、仲間で会社をやっているという感じでした。企業理念が必要となった時期(1996年)でもありました。「雇用の創造」「人々の成長」「社会貢献」。 1996年5月の企業理念制度時までは名文化されていませんでした。暗黙の了解として「お客様に信頼され、スタッフに頼られるテンプスタッフ」が浸透していきました。1996年、グループ会社も社員も増え、企業理念が制定されました。

  • 労働者派遣法ができた時の気持ちは?

    この法律の成立で人材派遣業は法律的に合法と認められました。支店も増やしていき、事業は拡大しました。

  • 男性の社員を採用とは?

    それまでは女性社員がほとんどでした。売り上げが100億円を達成した頃から、女性だけでは限界を感じていました。たまたま男性の入社希望者があらわれ、その後中途で新しい男性社員を入れました。 改革の旗をふる男性社員達、新しいやり方に違和感を感じる女性社員達といった対立の図式は生まれました。男女(新旧)の対立でした。しかし、苦渋の決断の末、組織や売上目標ができ、成長の基盤ができました。その後、売り上げは目標とした300億円まで達成しました。

  • 分社化を始めた理由は?

    1990年から新卒の男性社員も入社してきました。彼ら有言実行で「定量的な勤務評価(実績をつくった社員へはそれに見合った報酬を出す)」というのを要求してきました。私は「良いわね」と言い、提案を受け入れました。出る杭は伸ばす主義です。有能な社員へ試練を与えるために「グループ会社化」を選びました。人は場を与える事で育ちます。

  • 社内ベンチャー制度を始めたのは?

    世の中が急激に変化しているのに、社内がぬるま湯につかっているという危惧があったからです。2000年を第三の創業期の初めとしたいと思いました。チャレンジしない組織は滅亡します。

COMPANY

会社概要

企業名 パーソルホールディングス株式会社
所在地 東京都港区南青山1-15-5
業種 サービス - 労働者派遣
設立 1973年
資本金 17,479百万円(2020年3月31日現在)
従業員 50,774名(2020年3月31日現在)
事業内容 労働者派遣事業・有料職業紹介事業等の事業を行うグループ会社の経営企画・管理並びにそれに付帯する業務
URL https://www.persol-group.co.jp/
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