氏名 | 武井 英昭 |
---|---|
会社名 | 株式会社ハッピーカンパニー |
出身地 | 長野県 |
出生年 | 1949年 |
こだわり | 仕事も遊びも中途半端は無し |
---|---|
趣味 | 山菜やきの子が採れる時期は山へ、それ以外では花や野菜果物の世話 |
特技 | 腕相撲とマージャンには自信あり |
休日の過ごし方 | 私の人生には休日は無し |
座右の銘 | 来る者拒まず、去る者追わず |
好きな食べ物 | 酒のつまみになる食べ物、山菜、コシアブラの天ぷら |
尊敬できる人 | 渋沢栄一 |
1949年5月10日、貧乏な家庭の五男坊。六人兄弟の末っ子として生まれました。直ぐ上の兄は四歳年上で幼少期一人で家に残される事を嫌い、仕事に出掛けようとする母親をいつも困らせていました。ある日、二匹のアンゴラウサギの飼育を任せられ、最初は嬉しかったが、どんどんウサギが増え、小学校に行く頃には20匹を超え、餌の草取りや世話は365日行いました。他にも家の手伝いも増えるし楽しい魚取り、山菜取り、キノコ狩り、野兎狩りと野山川を駆けずり周る日々が中学卒業頃まで続き、家計を助けると供に体力も人一倍付き、力自慢で傲慢でした。ただ、貧乏から学んだ事は私の生き方を強くしたことは確かです。
高校卒業後、人生の目標も定まらず、とりあえず東京で営業の仕事に従事しました。1968年7月、突然、母の訃報。虫歯一本なく病気で寝込む事さえ一度も無かった母。村では働き者だった母の死は、家族の衝撃も大きく、私の人生を大きく変えます。実家は父親と長男の二人。家の運送業と家事を手伝う為、急遽長野に帰るのです。その冬、新潟県糸魚川市にて、スリップ事故を起こし、左大腿骨複雑骨折。病院より元通りに歩くことは難しいと言われ、ショックが大きく、その瞬間は自殺を考える程落ち込みましたが、遠くて交通の便が悪い糸魚川の病院まで連日見舞いに来る、父や兄弟、友人や意外な方まで。最新の治療を受ける為、東京の病院に移り、一年で普通に歩けるまで回復しました。長野に帰ると友人の多くが私を助けてくれたのです。個人の力より人と人との連携の素晴らしさを学びました。
新宿にて「マージャン荘」を営み、好きなマージャンと酒に溺れる生活を続けていました。1981年9月第一子長女(副社長)亜矢子誕生しました。その頃、仲間とカード式印鑑の製造販売の会社を作ろうと計画していたのです。私は山梨で印鑑製造の会社を立ち上げ、製造が間に合わなくて忙しい日々でした。2、3年後、暇で困る日も、売れないのであれば自分で売るしかないと考え、観光地のドライブインに営業を掛け、売上確保と製造を嚙み合わせ続けましたが、単品での売上に限界を感じ、1991年3月観光物産、総合卸業「ハッピーカンパニー」を設立。開業は4人でのスタートでしたが現在従業員数は約170名で活動しています。
人を型にはめるのではなく、それぞれ能力が出せる企業でありたいです。「自分の嫌な事は相手も嫌」その人に合った仕事であれば人は皆頑張れます。観光業は日本だけでなく世界中が苦しんでします。ただ仲間と乗り越え、私の大好きな日本のおもてなし文化を一日でもはやく提供したいです。その為に、社員だけでなく同業者や地域と手を組み強い組織を作り続けます。
30年の歩みで、北海道から沖縄までの観光業界を廻り、ホテル、旅館土産店、高速道SA,PA等、3000社とのお取引させて頂いております。ただ現在、観光業界はコロナ禍で苦しんでおります。弊社も苦しいですが、共に力を合わせ、知恵を出し合いこの危機を乗り越えます。コロナ禍で苦しむ中ではございますが、営業努力によりコンビニ3000店舗様とのお取引まで現在進行しています。お客様の声を大事に、社会に貢献出来る企業に成長できる様、従業員全員で手を取り合い、一丸となり頑張り続けます。
日本には世界に誇れる、自然、文化、歴史、勤勉な性格、人を想いやる心、それらを世界に誇り、また守れる人でありつつ、明るく、楽しく、おおらかな生活を築き、それも誇りとしましょう。失敗をする事も必ずあります。ですが挫折という経験が自分自身の肥やしとなります。一緒に頑張りましょう!
企業名 | 株式会社ハッピーカンパニー |
---|---|
所在地 | 山梨県山梨市東1688 |
業種 | 卸売・小売 |
設立 | 1991年 |
資本金 | 2,000万円 |
---|---|
従業員 | 150名 |
事業内容 | 食品、民芸、企画、製造、総合卸、観光土産店、レストラン、イベント販売 |
URL | https://www.happycompany.co.jp/ |