氏名 | 熊尾 重治 |
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会社名 | 株式会社アネビー |
出身地 | 徳島県 |
出生年 | 1940年 |
こだわり | 原理原則、物事の本質 |
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趣味 | 読書、ゴルフ |
特技 | 物事をとことん考えること |
休日の過ごし方 | 読書、近くの散歩、時たまゴルフ |
座右の銘 | 人事を尽くして天命を待つ |
好きな食べ物 | 徳島 半田そうめん |
尊敬できる人 | P.F,ドラッカー |
1945年5歳のころ高台にあった母の実家から、徳島市内がB29の爆撃で真っ赤に燃えている様子を鮮明に記憶しています。このため、小学校に入学したとき近くの大きな避難家屋から通学してくる 友達が多くおり、戦争の悲惨さを知りました。また小松島市内の私の家は四国88か所の札所のうち18番恩山寺への「お遍路道」にある為、お遍路さんがよく立ち寄られ、一人のときでも、お遍路さんをお接待しました。(お米など食べ物を差し上げることなどです)また、戦時中はどの家庭も子供は3~8人くらいまで大勢いたため、神社やお寺の境内、道路でもよく遊びました。(ゲーム・テレビがない時代)私はリーダーで喧嘩はしたが弱い子には、いつも優しくしていました。(このころのリーダーは皆このようで、いじめのようなことは全くなかったです)このような、戦争体験、弘法大師の宗教体験(同行二人)、遊びの豊かな生活環境、喧嘩体験が今日の私の価値観を作っていると思われます。
1963年大学卒業後コーンズ・アンド・カンパニー・リミッテッド(1864年設立)に入社しました。本社が香港にあり、日本代表はロンドン大学卒業した24歳 のイギリス青年であったが、海外の連絡はすべて英語で、私にも専任のタイピストを付けられていたが、私が長時間考えて作成した長文の文章をわずか数行、最大でも1/3の長さの文 章に置き換えられていました。これでは、何年勉強しても英語は所詮外国語で、この会社の幹部にはなれないと思い給料は安くなっても日本語で仕事ができる会社に勤めようと決心しました。
1966年2月入社、高校時代の恩師が中央線・武蔵境の駅前で大きな書店を経営していたが、神楽坂のマンションに事務所を置き本の出版・販売(当時は販売のみ)をする別会社を作って、大きく発展しつつありました。この会社は設立3年目であったが、仕事の内容と、恩師は素晴らしい人(西武百貨店 堤清二の親しい友人)であることは熟知していたため全く迷うことはありませんでした。 入社初年は販売修行で広島県、と北海道へ赴任したが2年目からは、経理業務に就任しました。 特に注力したことは、日経を購読しよく読み、ハーバードビジネスレビューも購読しドラッカーの経営学を勉強しました。
健常者と障がい者の差別があってはならないと思います。特に乳幼児教育においては特にそうです。従って、幼稚園・保育園の屋外、屋内の遊び=学び環境は初めからそのことを考えて設計さ れなければならないのです。社員は乳幼児教育に関して、日本のような歴史と文化を持つ成熟社会では、これからの教育はノーベル賞、金メダルを目標とする、エリート教育中心から、弱者中心の教育に変わらなければならないことを学んでもらうことだと思っております。現在は、コロナショックを切っ掛けに大きく経営改革をしているが、何よりも会社存立の使命が理解されることが重要と考えこのことを記載致しました。
今年のコロナショックによって、今後は、在宅勤務、リモートワー ク、男性の育児休養の強制化により、社会は労働も大事であるが、生活の質の向上が重要であると認識されるようになりました。家族はどこに行くにも乳幼児も一緒に、そこに幸ありの時代となります。今後5年以上当社には強い追い風が吹き続けます。社員の待遇も売上も利益も同業他社と比較して、4年以内にNO.1となります。
できるだけ多くの経験をして失敗をしてチャレンジをして下さい。情熱的なことをまずは徹底して頑張って見て下さい。また人間とはどういう生き物であるか常に探 究しつつ、自分の望むことに勇気をもって挑戦してほしいと思っております。
企業名 | 株式会社アネビー |
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所在地 | 東京都渋谷区元代々木町33-8 |
業種 | 製造 |
教育・学習支援業 - その他 | |
サービス - 娯楽 | |
設立 | 1990年 |
資本金 | 4,750万円 |
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従業員 | 88名 |
事業内容 | 幼稚園・保育園の園庭及び室内環境を欧州先進国の並みの質の高い教育空間を安全第一で有効に使用できるものを作る。 |
URL | https://www.aneby.co.jp/ |