PROFILE
賢者プロフィール
氏名 | 桜井 博志 |
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会社名 | 旭酒造株式会社 |
出身地 | 山口県 |
出生年 | 1950年 |
HISTORY
賢者ヒストリー
山口県の酒造の三代目として生まれました。そのため生まれた時から酒蔵にいて、酒蔵がわたしの遊び場でした。杜氏さんたちが米の出来具合を見るために、朝蒸しあがった米でつくるひねりもちを分けてもらうこともありました。本当に酒蔵の中で過ごす期間が長かったですね。大学卒業後は大手酒造メーカーで3年半働きました。その後、2代目であった父が経営する旭酒造に入社することになります。ただその後期せずして旭酒造を退職することになるのです。
ある日突然、父から「お前は明日から出社するに及ばず」と言われました。これは相当影響が大きかったですね。今になると覚えていないほど、きっかけは些細なことだったと思います。父は私の仕事が甘いと思われたのか、一方私は、多少なりとも東京に出て大手の営業を経験し、父がやっていることが田舎の酒蔵という狭い世界の中でやっているように思えていた、そんな認識のすれ違いが少しずつ積み重なっていったのだと思います。その後反骨精神もあり、桜井商事という石材卸業の会社を設立しました。酒造業から離れ、取り組んだ結果、桜井商事を年商2億円の企業にすることが出来ました。しかし1984年、父の急去により再び旭酒造に戻ることになるのです。
旭酒造に戻った当初はそれこそ怨念しかありませんでした。一度クビになっている訳ですからそれはそうですよね。もはや綺麗ごとではなく、「目にものを見せてやろう」という気持ちでした。自分が経営をすればこの酒蔵は立て直せる、その気持ちしかありませんでした。むしろ「自分がやる」という選択肢しかなかったのです。自信があるかないかを考える暇がありませんでしたから。
社長就任時には、第一次焼酎ブームの逆風が吹いていました。年商が前年度比85%という厳しい中で、周囲から倒産の危機が囁かれる中、新しい商品を看板商品に据え、経営の立て直しをはかりました。ただ結果は良くなかった。とても怖いですよ。打つ手打つ手が解決策にならないのですから。その間にも自社が地盤沈下していき、5~10年先がどうなるかわからない。それは本当に怖いことです。だから夜寝ていた時にパッと目が覚めた時の恐怖感は今でも忘れられません。安価な酒から品質重視の酒造りにシフトしていき、新酒の獺祭を作り上げました。健康と共存出来るお酒造り、お酒に対するハードルをあげることで、ある意味お酒を飲みづらくさせることにもなります。一方でお酒を飲む人に対する喜びは色々なかたちで提供しなければなりません。そこで生まれたのが獺祭です。徐々に私たちの酒造りが獺祭の販売手法・位置づけ・スタイルへと脱皮していきました。社会が今何を求めているのか、それを提供することが出来れば会社は伸びていけるんだということを実感しながら今は進んでいると感じています。更にこだわりを追求した商品(獺祭磨き二割三分)は作れば売れるという大ヒット商品になっていきました。杜氏制度の廃止や季節を問わない四季醸造など、自由な発想をもつようにしています。最初は当社も杜氏制度の中で酒をつくっていました。獺祭もその中で販売していく訳です。会社が伸びていく中でも慣例に囚われてはいけないと思っていましたね。例えば、自社で精米機をもって自社精米をするコストというのはある一定の量にならないとペイしません。自社精米をする方がいいことなのだ、酒蔵らしいのだという考えとは別に、そのペイするためのお金はお客様から頂かないといけなくなるわけなのですね。これはおかしいなと思うわけです。そのため当社では自社精米をせずに、外にその役割を出していましたね。
こんなに美味しいお酒なんだから日本だけではなくて海外のお客様にも飲んでほしい、日本酒の良さを分かって欲しい、これが私たちの単純な気持ちです。日本の伝統的なお酒だから、という訳ではなく、美味しいものだから飲んで欲しい、これに尽きると思います。結局のところ、美味しいものには国境はありません。もっとみんなが笑顔になるようなお酒を造らないといけないですね。
COMPANY
会社概要
企業名 | 旭酒造株式会社 |
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所在地 | 山口県岩国市周東町獺越2167-4 |
業種 | サービス - コンサルタント |
卸売・小売 | |
設立 | 1948年 |
事業内容 | 日本酒の製造・販売等 |
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URL | http://www.asahishuzo.ne.jp/ |